JOKER
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
JOKER観てきました。
事前にダークナイトを観て、史上最高と言われたヒース・レジャーのJOKERがしっかりと、楔のように心に食い込んだ状態で観たホアキン・フェニックス版JOKER。
美しく、もの悲しく、そして重い122分でした。
第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門で金獅子賞を受賞し、既に全世界で今年最大の作品として注目されていて、アカデミー賞も確実と言われています。
そんな前評判にたがわず、素晴らしい作品でした。
まず、映像が美しい。
これ、R15+指定なので、暴力的な表現(結構エグイ)がありますし、暴動もあります。アーサーはずっとタバコをふかし続けています。病的に(あの吸い方、精神に何らかの変調をおこした人の吸い方なんです。このあたり一つとっても、ホアキンの演技が半端ない!)
スタンダップコメディアンを目指すアーサー・フレックという一人の男が、理不尽でどうしょうもない現実の中で史上最悪のヴィラン「JOKER」へ変貌していくなかで、心の揺れや葛藤、怒りや諦観を、光と闇のコントラストの中で写し取っています。
ホアキンはジョーカーを演じるために24㎏もの減量を行って、あの体を作ったということです。
その本気度が演技に真っすぐに表れています。
上半身裸のシーンが結構あるのですが、肩甲骨当たりとかが気持ち悪い感じに作り上げられています。
なのに、深刻なトラウマを負っているとはいえ普通の男であるアーサーが、ジョーカーへと変貌していく過程で踊るダンスが美しいんですね。
限りなく孤独で、世間に全く認識されていない、誰からも相手にされない、果ては自分が存在しているのかどうかすら確信ができない状態に苦しんでいて、いつか世間に認めてもらえるコメディアンになりたいと、それを願っていただけの男だったはずなんですが、地下鉄で絡まれたエリート社員3人を射殺したことで連日報道されるようになることで変わっていきます。
テレビ局に向かうジョーカーが階段で踊るシーンは、アーサーがジョーカーへと変わっていく最終段階を終えた、いっそ清々しいまでの心の煌めきが観るものに伝わってきます。
この階段、すでにNYではジョーカーの階段(Joker Stairs)として名所になっていて、観光客が訪れては写真を撮りまくっているということです(1150 W 167th St, The Bronx, NY 10452, USA)。あまり治安のよい場所ではないので自己責任で。
この作品中、アーサーが自分の父親と思いこんだ(いや、本当の父親なのかもしれない)トーマス・ウエインに「一度でいいからハグしてもらいたかった。自分のことを認めてもらいたかった」と心の中の願いを、求めてやまなかった願いをぶつけるシーンがあります。
アーサーの本当の願いはそこだったのではないかと思います。
トーマス・ウエインには「お前は養子だ。自分の子供ではない。」と言われてしまうのですが、自分の父親に認めてもらえること、ただ一言「息子よ」と言ってもらえることが自分のアイデンティティを確認できる唯一のことだったのではないかと。
愛情に恵まれず、どこまでも孤独で、それゆえに破滅へ向かって落ちていくものの叫びは、「ボヘミアン・ラプソディ」の中でフレディ・マーキュリーが、「ロケットマン」の中ではエルトンが同じように激しく求め、そして絶望しています。
JOKERは全くジャンルの異なる作品ですが、稀代のヴィランが誕生する真の原因として認められない苦しみ、求めても消して得られない愛情への渇望を描いているところに、現代社会への警告と観る人への共感があるように感じます。
とはいえ、この作品、どこまでがアーサーの妄想で、どこからが現実なのかが良くわかりません。そもそもアーサーが「あのジョーカー」なのか、それどころか全てが入院中のアーサーの妄想だったのではないか。
そういう見方をさせてくれる作品でもあります。
あのエンディングは唐突すぎますからね。
特に、エンディングの最後の最後に、血糊と思わせるべっとりとした足跡を真っ白な病院内の廊下に残しながら踊るように逃げていくジョーカーが病院職員に見つかり追いかけっこを始めます。
典型的なコメディの「型」をここでブッコんでくる意図がなんなのか、それまでの重苦しさに圧倒されてきた者としては「へ?」となります。
しかもそのあとのスタッフロールで流れるのがフランク・シナトラですから。
トッド・フィリップス監督は、かなり先のことになりますが、何らかの形でこの映画の謎をすべて明らかにしてくれると言っています。
それはそれでいいと思います。そういう楽しみ方もありますから。
僕としてはこの作品を観て、映画解説者や映画愛好家の人たちが言っている解釈の一つで「全てアーカム州立病院に収監されているジョーカーが妄想(ジョーク)だった」というオチで済まさられるとは受け止められませんでした。
僕は、この作品を観ていて、その重苦しさにずっと鳥肌が立っていました。
ジョーカーへと変貌するしかないアーサーの人生に涙している人もいました。
僕としては、
「貧しく、何ひとつ良いことのない人生を過ごしてきて、でも人を笑わせたいと願う男いました。
そんな男が、裏切られ、踏みにじられ、存在を否定される出来事を浴び続けるなかで自分の存在意義を失い、それまでの自分では到底行い得ない行動である殺人をすることで世の中に認められ、自己肯定され、暴動の炎の中で自分の血で自分の口角を上げ、耳まで裂けた道化師の口を書きあげるのでした。
このときアーサーはジョーカーとして覚醒したのです。」
これが、最低最悪のヴィラン、ジョーカーの誕生であると思いたいです。
こんなやりきれない思いが無ければ、あんなヴィランが生まれるはずがないと思いたいです。
ネットでは諸説入り乱れて、とても多くの人たちがたくさんの「解釈」を発信しています。
映画は観た一人一人のもの。
解釈や受け止め方は100人100様で良いでしょう。
この作品のもう一つの魅力として、全編に流れる音楽の素晴らしさがあります。
チェロが重層的に織りなす、重苦しく、時に観る者の心に爪を立てる様な響き。
あの曲には90人ものオーケストラが参加して演奏されているそうです。
一見素直なようで複雑なアーサーの多面性をよく表していると思います。
また劇中に使われた往年の名曲たち。
アーサーの心の変化が伝わります。
アーサーがスタンダップコメディアンとして初めて劇場に立つシーンでは、ジミー・デュランテの Smile が流れます。
脳に負った障害の関係で「何が面白いのか」が理解できないアーサーが、この曲をバックにネタを演じ、「笑って欲しい」と訴えるのは残酷な感じもします。
また、感情の高ぶりで発作的に笑いが止まらなくなるアーサーにとって「自分が笑うこと」は辛いことしかないと思うのですが、この曲の最後に「人生にはまだ価値があると思えるだろう。もし君が笑っていればね」という歌詞が繰り返されるのは、この曲のもつ温かさの分、やるせなさがグッときます。
この作品の中でも最も印象的なシーンで、恐らく映画史に残るであろうを思うのが、元同僚のランドルを「自発的な意思で」殺し、あのジョーカーのメイクと衣装でさっそうと出かけ、階段で踊るところ。
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
ゲイリー・グリッターの Rock'n'Roll PartⅡ に乗せて踏むステップは力強く、自信に満ち溢れています。
この階段、繰り返し出てきますが、家に帰るためにこの階段を上るシーンはいかにも疲れはてた様子で足を引きずるように上がっていきます。ですが、踊りながら降りてくるこのシーンでは全く身のこなしが変わっているのが象徴的です。
なお、ゲイリー・グリッターも同じくらい、いろいろとやばい人なんで、そのへんのところも選曲の理由なのかな、なんて思ってしまいます。
暴動に燃える街をパトカーに乗せられて連行されていくシーンでは White Roomが。
暴動に燃える街を楽し気に眺めるアーサーが印象的で、そこには貧困や不条理にあえぎ、つぶされ続けてきた彼は、もうそこはいない。このシーンで流れるクリームのWhite Roomがめちゃくちゃにカッコいい。
ただ、エンディングでジョーカー(これは間違いなくジョーカー)がカウンセラーらしき女性と話しているのですけど、この部屋が「真っ白」なんですよね。
この曲が前振りだとすると、やはり全てジョーカーの「ジョーク」だったのかと、うーん、解らないですね。
個人的に白眉と思うのは、フランク・シナトラの That's Life から Send In The Clowns へと続くエンディング。
こんなに重くて悲しい、でも凶悪なテロリストの誕生を描いてきたのに、シナトラを聞いていると、やはり美しく、なるべくしてなった一人の男の人生が余韻となって胸を打ちます。
今年公開された映画では、ロケットマン で タロン・エジャトン がすごくイイ演技をしていました。
また、作品自体も本当に良くて、見に来てよかったベスト5に確実に入ります。
今年のオスカーはこの2作の一騎打ちになるのではないかと思います。
エジャトン、ディカプリオ製作の「フッド・ザ・ビギニング」で主演し頑張ってます。
今年JOKERさえ上映されてなければオスカーだと思ってんですけどね。
ホアキン・フェニックスすごすぎます。